能面 -その幽玄な世界-

宝増 三曜会第2回 能「船弁慶」

宝増 三曜会第2回 能「船弁慶」シテ 佐久間二郎師 

宝増

宝増

【わたしの逸品】 宝増

 

 この面は宝来が打った増女(宝増)を写したものです。

 増女のもつ端麗さだけではなく女性のやさしさも垣間見せます。

 この面は女面として彩色の上で多様なあそびの要素を多く含んでおり、これらが表情にさまざまな変化を与えてくれます。面袋から取り出し見るたびに、その面の世界が広がってゆくようです。私の大好きな面の一つとなっています。

 さらに先回の個展の際にも多くの方々にご好評を頂きました。有難いことです。

 この宝増は手放したくない能面のひとつで、女面を打つ際の手本としている面です。


若女(雪)

若女(雪)

【代表的な能面】 若女(雪)

 

 この面は横浜能楽堂20周年記念の能「六浦」(シテ 観世流能楽師 野村四郎師)で使用されました。(同時に開催された能面コンクールで大賞を頂きました)

 面は若女で型は伝増阿彌作をもとにしました。後シテは楓の精でありその舞台での性格を考えて強さは表には出さずに、内に秘めた表情に心がけました。優美な序ノ舞でも楓の精の思いが伝わるよう彫刻、彩色を工夫し、また、生きている人間でもなければ死相でもない草木の精の色合いとしました。

このような表現を野村四郎先生にご評価頂き舞台でご使用して頂きました。


 

【池谷 喜右ヱ門 第二回能面展】

 

平成30年5月3日から5月6日に行いました「第二回能面展」からの映像です。

 

池谷 喜右ヱ門 YouTubeチャンネル

 


ごあいさつ

能面師 池谷喜右ヱ門

 私が能を観るとき人間の避けられない性(さが)を感じます。舞台のなかでの幽かな感情の変化を自身の心のひだと共鳴できたとき己の存在が肯定され、実感できます。舞台を見ている私を寛容してくれます。能の舞台は私の生きることへの裏付けを与えてくれます。そして小さな仕合せを見つけ出す力を与えてくれます。そのような舞台において能面は能を支える壮大なる試みであったと思います。室町時代に生まれた能とともに能面も生まれ変化してきました。能が今の時代に生き続けていることを考えると室町の人々の思いが今の我々にも在ることが分かります。その息遣いは能面にも顕著に現れています。

 私にとって能面を打つことは森羅万象の幽かな変化を感じ取る力を無くさないための修行のようなものです。もちろん打つことそのものが好きであることには間違いありません。室町の息遣いを追いそれを具現できるとき錆びた心身が本来の人間へ回帰します。

面(オモテ)の小さな面積での表現が広大な世界を表せたときそして、見るたびにその世界が広がって見えてくるとき能面を打つことの仕合せを感じることができます。

 このように制作してきた能面をここに掲載することができました。皆様のご高覧を仰ぎご指導頂ければ倖であります。

ブログ

日に新た

 いつかテレビで、絵画の模写にはその作品の持つ揺らぎの写しが一番難しいポイントであると美術家が言っていたのを聞いたことがあります。作品の特徴的な面白さや価値はその揺らぎが決めているようです。模写はその揺らぎを写す作業と言ってもよいのだそうです。その番組を見ていて、私も能面の写しについて同じ感覚を覚えました。

以前のブログでも、能面の彫刻にしても彩色にしても「ゆらぎ」がとても重要であることを書きました。どちらの「ゆらぎ」も無意有意を問わず、作品の無限の広さと深みを醸し出しています。

絵画でもそうですが、「ゆらぎ」がある能面は何回見ても、いつ見ても飽きることはありません。見る人のその時の心の状態次第でどのようにも見えてきます。見る度に新しい発見があります。

 能面の作者としての面白みは、この「ゆらぎ」を写す古面(またはモデルとなるオモテ)から探し出すこと、その「ゆらぎ」をどの様に写してゆくかを悩み、作法を見つけることにあると思います。それらを作品に注ぎ込み、能面の無限の広さと深みを眺める時々に見つけることが何にも変えられない楽しみとなります。

もし、日を置いて眺めた時何も見つけることができなかったり、面白いなと感じられなかった場合は、「ゆらいでない」状態、例えば態とらしさや西洋的なフォーマットしか見つからない秩序しかない場合です。そんな時は、態と失敗に近い策動を施します。「ゆらぎ」を追加するのです。そして、また時間を置いて眺めます。こうしたことを繰り返すことが、私の写しの原点です。そして、日に日に出来上がってくる作品を見ることが作品を成長させる原動力となっています。「日に新た」の感覚で、作品に取り組んでいます。そして時を隔てても新しい発見があるような、そして見る人の内面を少し擽るような作品を目指しています。日々新たな気持ちで…。

能面打ちと旅

 私の旅に対するイメージは大体次の通りです。

身体の居所を変えながらこころを解き放ち遊ばせ、普段の刺激から離れ、今まで経験のない新しい刺激を求め、そしてこころに新しい栄養を与え、元の居場所に帰ってゆきます。

 最近この様な旅はとんとしていません。旅に出なくなったのは、確か本格的に能面を打ち始めてからかもしれません。なぜか旅に出たくなる欲求が起きないのです。こころが枯れるというか、こころが空っぽになるというか。そんな気持ちになることが余りなかった様な気がします。

  能面を本格的に打ち始めた頃は、木を削り彩色を施す日々が毎日の様に続きました。こころが空っぽになる時間など全くありませんでした。素晴らしい能面を写すことで、古(いにしえ)の作者のこころと己のこころを重ね合わせ、古の時代に遊ぶ経験をすることができました。古の時代に旅をする様なものです。そして写す能面が変わるごとに遊ぶ内容も、旅の方法も変わりました。こころに流入してくるエネルギーは、日々の生活で枯れてゆくこころを満たすには十分な量がありました。そして、余ったエネルギーは日常のストレスから身体を守ってくれるバリアにもなってくれた気がしています。

それに修行の様な間髪を入れない写しの行為は、こころそのものを良い方向に変質させて行った様です。人間に対する考え方、人との関わり方などストレスがかかった時のこころの置き方、すなわちこころの変え方を理解し実践できる様になったのです。

外から見ると修行の様な能面写しの行為は、この様にこころを遊ばす力を与えてくれました。別な言い方をすると、こころを柔らかにしておき、あらゆることを受け入れる技を身につけたと言えます。この様にこころを上手く動かし、こころを遊ばせながら生長させて行けるものは他に思い当たるものがありません。まるで遠い遥かな国々に旅している様です。

  私のもとから旅立ってゆく能面たちが、私に代わって次の人たちのこころに生きるエネルギーを与え、生きる栄養を届けることを思いながら、遥かな旅はまだまだ続きます。

 

能面との対話 ⑥ 〜よろこび〜

 能面を作っていてはじめてよろこびを感じたときのことを思い出すことがあります。自分の能面を見る審美眼が格段に上がったと感じて、その審美眼と自分の作品が同じレベルになった時です。自分の審美眼と作品は、相互に作用して、ある時はゆっくり、ある時は唐突によくなります。能面への審美眼すなわち感性は、ただ能面を作っているだけでは身につくものではありません。確かな技術を習得しながら、名品と呼ばれる作品を見て、心技を整えてゆくしかありません。私の場合、師匠の教室でそれは同時にできました。

私の「能面」に対する審美眼は、師匠の「能面」に対する考え方、向き合い方、そして師匠の作品を直接見聞きすることによって養われました。もちろん、他の能面師の作品も見ています。審美眼は、自分の手で幽玄の色を実践できてはじめて、裏付けを得たことになります。実践できないうちは、会得したと思っている審美眼の力は次第に弱くなっていきます。元に戻ってしまわないうちに、自分で実践するか、師匠の作品を見て、強化するしかありません。これは、永遠の修行のようなものです。そして、修行の中のよろこびはいつ訪れるかわかりません。徐々にまた突然出会うことがあります。だから、「能面」作りを永遠に続けます。「能面」作りは、私にとってよろこびを追い求める永遠の過程であって、限りなくつづく修行のようなものであるからです。

よろこびは、理屈ではありません。自分の感性を作品として表現し尽くしたとき、最初のよろこびは訪れます。そして、舞台にかけてもらった「能面」が魂を吹き込まれたとき、よろこびは倍増します。演じる側と見る側が「能面」を通して目に見えぬ感性を授受し合い、その空間に何か得体の知れないエネルギーを感じる時です。さらに、作品を人前に出し、よりたかき感性を持つ人と直接的に共感できたとき、最上のよろこびとなります。仕合せを感じる瞬間です。

私は、この最上のよろこびを見つけるために、「能面」を作り続け、共感してくれる人々を探し続けます。その人たちは、一体どこにいるのでしょう。よろこびを求めて、永遠に歩き続けます。

 

能面との対話 ⑤ 〜技をぬすむ〜

 今思い起こして見ると、入門してからこの方、師匠から言葉で直接教えを乞うたことはほとんどなかったように記憶しています。教室では、彫刻や彩色の作業をした記憶があまりありません。ほかの兄弟弟子の指導の様子を見ていた覚えしかありません。最初の頃は、師匠の刀捌きを食いるように見ていました。無駄のない刀の動きは美しささえ覚えました。一つひとつの刀の使い方で、骨格の捉え方、肉の落とし方や付け方を覚え、目、鼻、口の表情を理解していきました。小面、若女、深井と年齢による各部の表現の違いを見て覚えたものです。そして、自分で実践していきました。刀がスムーズに運び、彫刻表現が的確になるまでに、いくつの小面を作ったことでしょう。もちろんモデルとなる木型の能面を借りてのことです。それも「雪の小面」でした。

今も「初心に帰る」ことを大事にして、彫りかけを捨てずにとってあります。「雪の小面」は、女面のすべての基本が備わっていると言ってもいいでしょう。この小面さえできれば、女面は卒業であると思っていました。女面の急所はどこなのか、口角のような型紙のない箇所の作りとその意味を探りながらの、彫刻作業でありました。そして、教室で見てきた、師匠の刀捌き、彫刻の確認の仕方、ちょっとした物言いなどを細部に渡って、思い出しながらの作業でした。これらを頭の奥深くに刷り込み、自然と手の動きになってゆくまで、修行しているかのようでした。部分部分の細工とそれらの繋がりが、自然とバランスよく整うまで、我慢をするしかありませんでした。そして、ある日すべてが整った小面が出来上がるのです。多分、全体を調整する技量と刀の動きを制御する技術とが相互に高め合って、一定以上のレベルになったのでしょう。

この状態で、師匠の刀捌きを見ると、刀の動きの先が見えてくるのです。刀のすべての動きの意味が自然と分かってきます。

彩色ではどうか。強さとたわやかさを兼ね備えている彩色。一様に色の打ち方、研ぎ出しの強弱を、師匠の手先から感じ取り、同じように自分の「能面」に施し、師匠の彩色と比べるという日々が続きます。強さを写しても、たわやかさが出なかったり、たわやかさだけで強さが出なかったり、そればかりではなく奥深い幽玄の色がどうしても表現できないのです。材料や道具が違うからと疑って、同じものを何とか探して手に入れて、同じ工程で彩色してみても、やはり奥深い幽玄とは程遠いのです。どう考えてみても、何かが足りないのです。上塗りの液、上塗りの仕方、上塗りそのものの考え方が違っているとしか言いようがないのです。多分、それが奥義のひとつであると確信して、師匠に訊ねてみます。独り言のように、ボソッと、一言二言ゆうのでした。それを私は聞き逃しませんでした。しかし、それらは多分、奥義の入り口なのでしょう。後は自分で工夫してみなさいと言っているようでした。その後も、奥義と思った方法を、様々な要素を変化させながら、彩色をしてゆきました。もちろん、奥深い幽玄の色は容易くできるものではありませんでした。時として同じような味わいになることもありましたが、殆どが色を乗せている、態とらしい彩色になってしまいました。再度、考え直すのです。後は、物理的、化学的な要素をさらに微小に制御するしかありませんでした。指先の力の入れ具合、布の湿り気具合、布そのものの表面の粗さなど、神業に近いような感覚の世界でありました。特に、この辺りに意識を持ってゆきながら、彩色を施していきました。幽玄の色が出る確度は、確かに上がったのです。ただ、部分的にではありますが。

「能面」全体に幽玄な味わいを出すには、全ての彩色のゆらぎについて細かな組み合わせの数を制御する技と、その組み合わせの量的なバランス感覚が必要になります。これらは、日本の独特の自然観、そして遊びの感覚に繋がっています。これらは、師匠が言っているように自分の工夫でしか出てこないものです。自己の感覚、感性を自分で磨かねければなりません。口伝などできない領域です。神業の彩色としか言いようがないのです。

能面との対話 ④ 〜彩色の妙味〜

「能面」の彩色の写しは、能面師によって随分と違います。何を写すのかは千差万別です。ただ形だけに拘り、見てくれだけを写している「能面」の何と多いことでしょうか。そして、思いの強い一方的な「能面」がよく好まれています。やはり、室町時代から伝わる本面と呼ばれている名品を見る機会が少なくなったことが原因かもしれません。

「能面」を見る時、そしてその「能面」を写す時、大変重要な観点があるように思います。「能面」から伝わる強さだけでなく、見る側の能動的な思いを受け入れてくれるたおやかさが「能面」にあるかどうか。そして、そのたおやかさを見る側が感じ取れるか、見る側にも様々な感情を受け取れる器があるかという点です。両方があってはじめて写しは「写し」を超えられます。特に、彩色には必要不可欠の要素です。写す側の感性が、これらに影響を与えるといってもよいと思います。

「能面」の強さとたおやかさを実際に見たのは、早稲田大学の演劇博物館で行われた現代能面師の能面展での師匠の作品でありました。他の能面師の作品との違いは分かったが、それが室町の彩色だと分かるのは、もっと後で、師匠の「雪の小面」の写しを見せて頂いた時でした。彫刻が細部にわたりきっちり写されていることは元より、強さとたおやかさが両立している彩色には驚きました。ただ時代が経過しただけではない、奥底から湧き出る深い味わい、なんとも言葉では言い難い幽玄の色、現代の作品とは思えない品の良い、落ち着いた古さ、それらが自然の景色のように絶妙なバランスで構成されていました。正に、これが室町の彩色なのでした。

今思うと、室町時代の「能面」を見る感性を鍛えてくれたのが、師匠の作品であったと思います。隙のない美しさの中に、強さとたおやかさを両立させている作品は、室町時代の「能面」の本質を理解できる者にも、もちろん私にも、素晴らしい手本であります。

師匠の作品の虫干しでは、室町彩色の「能面」が二百近くも並びます。何百年も時間が戻った感がするほどです。どの「能面」を見ても、幽玄の妙味が随所に見えます。いや随所というよりは、全体が幽玄の世界です。そのとてつもない幽玄の妙味と隙のなさゆえに、見る者を圧倒します。そして、まるで室町の作者と対話しているかのように、どの「能面」からも本面の作者の声が伝え聞こえてくるようです。「どうだ、お前に写せるか?」と迫ってきます。「能面」を打つ者にとっては、挑戦状を叩きつけられているようです。そして、「一所懸命、写して見なさい」とも聞こえます。これは師匠の厳しくそして優しいことばかもしれません。

幽玄の妙味は、彩色のゆらぎが、程よくそして自然のそれのように制御されて、はじめて現われます。師匠の作品は、一見すると、それは無造作に彩色された様子を見せます。それ故、その難しさが分からないうちは、簡単そうに見えるのです。しかし、このゆらぎを作り出すことは、至難です。どうやっても、作為が入り込むのです。ただの真似では、幽玄の妙味は写すことができません。彩色のゆらぎは、いく通りも組み合わせがあるはずです。師匠の彩色の面白みがどこにあるのか、どんなゆらぎの組み合わせが幽玄の深みを醸し出しているのか、自分の感性でよく見据えなければなりません。そして、それを自分が制御できる彩色のゆらぎに置き換えられるか、実際に彩色を施しながら大胆に試して行くしかありません。行き過ぎた彩色を、様々な方法を使って、幽玄の妙味に変えてゆける遊びの感覚が必要です。これらの、言うならば彩色の妙味は、日本独特の自然観に通じます。世界を魅了している、古き良き日本の景色です。

 

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