能面との対話 ⑤ 〜技をぬすむ〜

 今思い起こして見ると、入門してからこの方、師匠から言葉で直接教えを乞うたことはほとんどなかったように記憶しています。教室では、彫刻や彩色の作業をした記憶があまりありません。ほかの兄弟弟子の指導の様子を見ていた覚えしかありません。最初の頃は、師匠の刀捌きを食いるように見ていました。無駄のない刀の動きは美しささえ覚えました。一つひとつの刀の使い方で、骨格の捉え方、肉の落とし方や付け方を覚え、目、鼻、口の表情を理解していきました。小面、若女、深井と年齢による各部の表現の違いを見て覚えたものです。そして、自分で実践していきました。刀がスムーズに運び、彫刻表現が的確になるまでに、いくつの小面を作ったことでしょう。もちろんモデルとなる木型の能面を借りてのことです。それも「雪の小面」でした。

今も「初心に帰る」ことを大事にして、彫りかけを捨てずにとってあります。「雪の小面」は、女面のすべての基本が備わっていると言ってもいいでしょう。この小面さえできれば、女面は卒業であると思っていました。女面の急所はどこなのか、口角のような型紙のない箇所の作りとその意味を探りながらの、彫刻作業でありました。そして、教室で見てきた、師匠の刀捌き、彫刻の確認の仕方、ちょっとした物言いなどを細部に渡って、思い出しながらの作業でした。これらを頭の奥深くに刷り込み、自然と手の動きになってゆくまで、修行しているかのようでした。部分部分の細工とそれらの繋がりが、自然とバランスよく整うまで、我慢をするしかありませんでした。そして、ある日すべてが整った小面が出来上がるのです。多分、全体を調整する技量と刀の動きを制御する技術とが相互に高め合って、一定以上のレベルになったのでしょう。

この状態で、師匠の刀捌きを見ると、刀の動きの先が見えてくるのです。刀のすべての動きの意味が自然と分かってきます。

彩色ではどうか。強さとたわやかさを兼ね備えている彩色。一様に色の打ち方、研ぎ出しの強弱を、師匠の手先から感じ取り、同じように自分の「能面」に施し、師匠の彩色と比べるという日々が続きます。強さを写しても、たわやかさが出なかったり、たわやかさだけで強さが出なかったり、そればかりではなく奥深い幽玄の色がどうしても表現できないのです。材料や道具が違うからと疑って、同じものを何とか探して手に入れて、同じ工程で彩色してみても、やはり奥深い幽玄とは程遠いのです。どう考えてみても、何かが足りないのです。上塗りの液、上塗りの仕方、上塗りそのものの考え方が違っているとしか言いようがないのです。多分、それが奥義のひとつであると確信して、師匠に訊ねてみます。独り言のように、ボソッと、一言二言ゆうのでした。それを私は聞き逃しませんでした。しかし、それらは多分、奥義の入り口なのでしょう。後は自分で工夫してみなさいと言っているようでした。その後も、奥義と思った方法を、様々な要素を変化させながら、彩色をしてゆきました。もちろん、奥深い幽玄の色は容易くできるものではありませんでした。時として同じような味わいになることもありましたが、殆どが色を乗せている、態とらしい彩色になってしまいました。再度、考え直すのです。後は、物理的、化学的な要素をさらに微小に制御するしかありませんでした。指先の力の入れ具合、布の湿り気具合、布そのものの表面の粗さなど、神業に近いような感覚の世界でありました。特に、この辺りに意識を持ってゆきながら、彩色を施していきました。幽玄の色が出る確度は、確かに上がったのです。ただ、部分的にではありますが。

「能面」全体に幽玄な味わいを出すには、全ての彩色のゆらぎについて細かな組み合わせの数を制御する技と、その組み合わせの量的なバランス感覚が必要になります。これらは、日本の独特の自然観、そして遊びの感覚に繋がっています。これらは、師匠が言っているように自分の工夫でしか出てこないものです。自己の感覚、感性を自分で磨かねければなりません。口伝などできない領域です。神業の彩色としか言いようがないのです。