「能面」の彩色について「祈り」のもとになる揺らぎの話を、以前のブログで書きました。様式化する以前の創成期(室町時代)の能面に強く感じられる揺らぎの中に「祈り」がよく現れています。写しの時代(江戸時代)になってからの「能面」との決定的な違いは、この揺らぎであり「祈り」であると考えています。揺らぎのない彩色からは、「祈り」は生まれてこないとも思っています。
これらの揺らぎは、果してどの様にできたのでしょうか。時間の経過による化学変化、物理変化だけで出来たのでしょうか。恐らく、多くは古の作者の手による、目的のある揺らぎの表現であると考えるのが自然であると思います。揺らぎには、「祈り」を「能面」に込めたいという意志すら伺えます。そして、舞台を見る観客に「祈り」を伝えたいという強い思いをも感じます。
揺らぎをどの様に表現すればいいのか。少し考えてみます。
能面を作っている人たちの中で、揺らぎとか「祈り」を意識して、写している人がどのくらいいるか分かりませんが、「能面」の彩色を、時代を入れるとか古色を掛けるということばで括ってしまっている人が多いのではないでしょうか。これらのことばからは、時代を足してゆく、古色を加えてゆくなど彩色を付け加えてゆく方向の彩色、すなわち加算の彩色が感じられます。揺らぎの美しさは、彩色の加算だけで可能でしょうか。自然の美しさを見てみると分かると思います。風化し、朽ちて崩れてゆく時の何とも言えない面白さは、この上ないものです。煌びやかな様態が、所々剥がれまた、その場所に別な要素が加わってゆく。その際限のない繰り返しが、揺らぎの美しさになり、最後には「祈り」さえ感じられるものになると思っています。
能面の彩色にも、朽ちてゆく美しさが必要であると考えています。朽ちてゆくことを、時代を入れると評してもいいかもしれません。ただ、加算の彩色だけでは揺らぎの美しさを表現することはできません。彩色の減算が必要なのです。そして、加算と減算の繰り返し、加算と減算の量のバランスと品の良さ、加算と減算を制御する精緻さ、そして面白さを発見する眼力が必要不可欠です。別な言い方をすれば、自然が行う揺らぎを「能面」という小さな領域に表現する技量と眼が必要ということです。
古きよき「能面」をよく観察し、古の作者が持っていた技量と眼を推量し、それらを現代の自分の「能面」の上で試作してゆく中で、自分の表現方法を見出してゆくしかないと思います。古の作者との対話を通して、自分の中に彼らと共通する精神を見出し、磨け上げる楽しさを実感してみましょう。それが、「能面」制作の醍醐味です。